前回は「私が生まれた家庭環境」について書きました。
今回は私の育ち方について。
過保護と過干渉
過保護というより、過干渉だったのかもしれない。
過保護は、子どもが望むことをやってあげることだけれど、必要以上の保護をしてしまうこと。
失敗させたくないあまり先回りして親が原因を取り除いてしまったりすることで、子どもの心身の自立を妨げる結果になってしまう。
過干渉は、子どもが望む、望まないに関わらず、親が望むことを子どもにやらせる(または禁じる)こと。
子どものために良かれと思ってやっていることで、子どもの生きる力を育むチャンスを奪ってしまっている。
どちらかというと、「過干渉」だったのかなとも思っていますが、カショ子よりカホ子の方が語呂がいいので、ここはカホ子で(笑)
私の小学生時代
小学校では、勉強をする時も、ピアノを弾く時も、常に斜め後ろに張り付かれて、指示されていた。
「はい、つっかえたから、ここからここまで5回弾いて」
「じゃ、今度は全部通して」
「またつっかえた。今度はここを3回弾いて」
木でできたピアノの椅子の背は、私がガリガリと噛みついた歯形で真っ白だった。
私は中学受験をしていて、小4から塾に通っていたけれど、家での勉強は自分で解くことはほぼなく、私は問題を見ながら、声に出して答える。
その答えが合ってるか間違ってるか、母が答えを持っていて、確認する。
間違えば解説され、正しい答えを復唱する。
今、思えば、母もよくやれたなと思う。
完璧に家事をしつつ、6歳下の妹の面倒もみつつ、勉強やピアノの時間は私に張り付いていたのだから。
中学・高校・大学・社会人
中学・高校では見張られることがなくなり、勉強の目的も仕方もわからず、成績急降下。
入学当時、上から1桁だったテストの順位が、高校1年の3学期には下から1桁になっていた。
毎夜、家族会議が開かれた。
高2から塾に行きだすことで、またお尻を叩かれ、いくつかの大学に合格。
この時のことがもとで、私は怠け者で、追い立てられないとできないんだというセルフイメージを持った。
強制されたわけではないが、大学も会社も母の意見を、私が優先した。
自分で選べなかったのだ。
私は、社会人になってからも、
着る服さえ決めることができず、うかがいを立てていた。
自分で決めた服は、母にもっと良くなるようアドバイスされ、そのまま着ることはなかった。
私はセンスが悪いから、自分で決められないという思い込みを持っていた。
全ては愛情だった
それでも全てが愛情で、私は何不自由なく与えられてきた自覚もある。
小さい頃には、たくさんの絵本を読んでもらったし、
お嬢様学校と言われる中高私立一貫校にも、私立4年制大学にも、
バレエにも、ピアノにも、スイミングにも、お習字にも、塾にも、通わせてもらった。
長期休みは毎回、色々な場所へ家族旅行をした。
たくさんのお金をかけてもらってたし、してもらったことは本当にたくさんある。
子育ては連鎖する
私にとっての子育ての当たり前は、自分がされた子育てだった。
だから、同じようにやろうとして、できなくて、苦しむことになった。
今でも時折、息子に対して、無意識に過保護にしそうになる。
行動も思考も。
それでも、自分なりの子育ての目的を持っている。
自分がしてもらった子育てが、自立を促すものではなかったと理解している。
自分がしたい子育て、ありたい親子関係がある。
それらを学んで、自分で考えて、やっと子育ての苦しさから抜け出せたのだ。
過去の私へのメッセージ
追記
実は、私は親とのことを完全に克服できていはいない。
私は自分で選べることが幸せなのだと言いながら自分で選んだことの責任を取るのが怖くて、まだ他人(親)のせいにしてるところがある。
こんな風に育てられたから、私がこうなっても仕方がないと。
でも、それを手放したくて、もがいてる。
だから、色々な場面は思い浮かぶものの、詳細に書いて公表することは難しい。
全てを克服して、書ける日が来たら・・・そう思ってる。
次は、夫と結婚した後へ、話を飛ばします。
「少女漫画的プロポーズからの新婚生活」


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