一難去ってまた一難

私の過去の話

前回は「欲しいものが手に入らないつらさ」を書きました。
今回は妊娠について。

努力が実る

不妊治療を始めて、2年半。ついに妊娠した。
結果発表の時に、診察室で望まぬ結果に何度も泣いていたけれど、初めて嬉しい涙が流せた。

心拍確認後も、出血があり、切迫流産と診断され、安静にしていた期間もあった。
つわりの時に食べられたものは梨とクラッカーだけ。
どんどん痩せていって、赤ちゃんに影響はないのか不安になったものの、つわりの時は気にしなくていいと言われて一安心。
水分だけはこまめに取るようにした。

一難去ってまた一難

不妊治療の病院を卒業し、産婦人科で3ヶ月検診の時のこと。
いつもなら、するっと終わる超音波検査が随分と時間がかかっていた。
「首の後ろにむくみがあるね。クアトロテスト受けようか。」
と先生に言われ、何だかよくわからないまま、血液検査をした。
家に帰ってネットで調べて、ものすごいショックを受けた。

クアトロテストとは、赤ちゃんが特定の疾患を持って生まれてくる確率を調べることができる検査。

障がいがあるかもしれないってこと?
何で?どうして?体外授精だったから??(関係ないけど、当時はそう思った)
ネットで調べれば調べるほど、障がい者への厳しい言葉ばかりが目に入る。
クアトロテストは確率しかわからないの?
羊水検査なら、わかる・・・でも流産の危険性がある。

やっとのことで赤ちゃんできたのに!
何で?!どうして?!私ばっかり!!

両親からは、
もし障害があるとわかったなら、育てるのには覚悟がいる。大変なんだよ。あなたにそれができるの?やめときなさい。
と言われた。

夫は、私が選べばいい、私の選択に従うというスタンスだった。
そんな無責任な!2人の子どもでしょう?!と思いつつ、あなたの意見を聞きたいと言ったけれど、結局彼は自分の意見は言わなかった。
不安でいっぱいの私は、それでも育てられる!生む!なんて強く断言できなかった。

結果がわかる次の検診まで1ヶ月、布団の中で丸くなって、ほかに何もできず、
ひたすらネットの海に溺れて、気持ちも嵐に飲まれ、廃人状態だった。
本当に何もできなかった。

結果発表

結果が出る日の病院の待合室では、相当に青い顔をしていたのか、受付の人にも体調悪い?大丈夫?と聞かれるような有様だった。
結果は、かなりの低確率だった。正直ほっとした。
ただ、障害のある子が生まれる可能性があるのだと、初めて自分事として考えた事柄だった。

不妊治療中は、妊娠がゴールだった。
でも妊娠すれば、出産がゴール。
実際には、出産もゴールではなく、スタートだったけれど。

その後は、つわりが終わり、お腹も膨らんでいった。
男の人と縁遠かったせいか、生まれるのは女の子だろうと勝手に思い描いていたが、性別がわかったら男の子で驚いた。
が、男の子でも女の子でもとにかく元気に生まれてきてくれればいいと思えたのは、前述の事柄があったからかもしれない。

幸せな妊婦生活

戌の日に安産祈願の参拝に行ったり、母親教室に行ったり、ベビー用品を揃えたり、友達と会ったり。
住んでいた部屋が、日当たりが悪く洗濯物が干せないことや、今までは仕事で平日昼間はほとんといないし、休日も出かけることが多いので気にならなかった居心地の悪さから、引っ越しもした。

長時間電車に乗ると気持ち悪くなる、夜中に息子の胎動で起こされる、トイレが近いなどはあったものの、順調な妊婦生活を送った。

お腹にいた頃から、息子は動きが激しく、足や手の形がわかる位、お腹を中から押してくるのももちろんのこと、息が止まる!っていう位激しいキックをしてくることもあった。
生まれてきてからも、動きが激しく常に動いていた息子を見て、お腹の中でもこうだったから、これはこの子の性質かと思ったことをおぼえている。

それでも、手や足がお腹の中から見えて、撫でるとお腹の中に戻っていくのは、自分の中に赤ちゃんがいるのだと思えて、幸せな時間だった。

次は、「息子が生まれる」へ続きます。

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藤畑 ふゆこ
藤畑 ふゆこ
神奈川県横浜市在住。 夫、息子(小学1年生)の3人家族。 息子が発達障害グレーゾーンと診断され、 「思い通りにいかない子育て」に苦しんでいたところ、 35歳で「プレシャス・マミー」に出会い、子育てコーチングの実践を始めた。 その結果、自分自身も親子関係も大きく変化した。 「ダメ出し地獄はもう卒業 子育てをエンターテイメントに!」 をキャッチコピーに掲げ、 ママが自分らしく、 楽しく毎日を過ごせるように、 宇宙人5歳男子ママ専門コーチ、 子育て講座講師として活動中。 詳しいプロフィールはこちらから
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